〒790-0807 愛媛県松山市平和通1丁目1番地7 松山柳舘2F
TEL.089-933-5622 FAX089-933-5623
松山の検番の歴史は花街の発展と共にあります。明治四年に廃藩置県が実施されるまでは、大街道より西側の二番町・三番町・千舟町は士族の住む屋敷町でしたが、徐々に士族の居住者も減り、明治十年頃にはポツポツと料理屋が開業し始めました。武家屋敷の造作、庭がそのまま料亭として使えた事、近くに大街道という繁華街が通っていた事、一番町の官庁街から近かった事を理由に、二番町・三番町に松山の花柳界は形成されていきました。
料理屋が現れると、酒宴をする場所を提供する待合が現れ、酒宴に華を添える芸者が現れます。芸者は置屋に所属し、そこで踊りや稽古を教えられました。更に、このいくつもの置屋を束ねる統括的立場として松山検番が誕生します。ですので、お客がまず料理屋に現れますと料理屋は料理の仕出しを頼み、検番に芸者の手配をお願いします。その当時は、料理屋は、自分の所で料理をするということは少なく、貸し座敷の様な役割を果たしていました。しかし、中には自らの店に、腕利きの板前をかかえ本格的な料理を出す料亭と称する料理屋がありました。松山では「梅の屋」「明治楼」「亀乃井」が三大料亭と呼ばれています。特に「梅の屋」は、政治家が集まる舞台として別格であり、唯一、置屋を兼業する事も許されていました。この県内随一の料亭を誇る「梅の屋」に所属していた「お友」姐さんは芸者の中でも別格の中の別格であり、戦後の松山検番を形成する中心人物となります。
「梅の屋」は元々、士族白川佐々右衛門の屋敷でしたが、白川家から伊予鉄道の創始者、小林信近に渡り、その後、料亭「梅の屋」となりました。政友会、民政党の政治活動が華々しかった頃は、ここが政友会の溜り場であり、事あるごとに党員たちが集まり、豪遊する一方、戦術を練ったといわれています。政友会が「梅の屋」なら、民政党は「明治楼」を本陣としました。「明治楼」は、武家屋敷をそのまま利用したのではなく、明治に入ってから建てられ、百五十人は入れる百畳敷の虎の間を始め、力士も利用した竜の間、鶴、月、雪、花などの各間の他、客が泊まる事が出来た新館も持つ大きな料亭でした。そして、「亀乃井」は、そのどちらにも属さない中立派ということになっていました。
一方、芸者をかかえる置屋が登場したのは、明治十二年頃で、東雲亭、浪花亭の二軒が最も早かったといわれています。明治十九年には置屋の数が四・五軒に増え、組合の花山舎が設けられました。ちなみに、当時の大工の日当が十六銭で、芸者の花代は一時間五十銭でした。夜には、検番から料亭へ向けて、芸者の引き合い状況を一覧表にした「あきがみ」を回し、それを見ながらの御指名となりました。料亭街が形づくられていくにつれ、置屋と芸者の数が増え、昭和六年には松山検番に加入の置屋が二十一軒にも及びました。検番は市内の松山検番以外にも、道後に上検番と下検番の二つの検番が、そして三津にも三津検番があり、大正~昭和初期の全盛期には、県内で検番が約四十軒、置屋が四百三十九軒、芸妓が千三百五十人いたとも伝えられています。
道後の場合、上検番は松ヶ枝町の入口あたり、下検番は道後温泉本館のやや南西に位置し、それぞれの検番には百人を超える芸者が登録されており、付近には芸者を抱える置屋が多数散らばっていました。置屋の中でも椿湯の隣にあった桔梗家は、一流芸者を抱える置屋として広く知られており、当時は、道後温泉も夜通し営業をしていた為、温泉につかっていたら松ヶ枝町で遊ぶ太鼓の音が聞こえてくると言われたほど、道後周辺は不夜城のごとく賑わっていました。
また、明治後期から昭和初期の新聞には、芸者達が写真入で紹介されており、明治三十六年から毎月のように新聞で、検番ごとに花代売上高ベスト一〇も紹介されていました。芸者達は美しさと共に、芸にも磨きをかけ、唄、踊り、三味線などの厳しい稽古を積み、礼儀や作法などの指導も受けました。中には、大竹席の「米千代」姐さんのように、文学に精通した文学芸者と呼ばれる人もいましたが、いずれにせよ、彼女達は料亭街の花であると同時に、厳しいしきたりの中でも生きていました。
しかし、そんな松山の花柳界も太平洋戦争によって崩れていきます。昭和十八年には「遊興飲食税法」が改正されて税率が大幅に引き上げられ、料理屋や飲食店の廃業が相次ぎます。また、昭和十九年には「決戦非常措置要綱」に基づき、県内の高級料亭や置屋、芸者の多くに休業命令が出され、昭和二十年には、松山市に百二十八機にものぼるB-29が大空襲を行い、松山城をとりまく市街地は炎に包まれ、逃げまどう市民によって街は大混乱に陥りました。街は焦土と化し、被災者は市民全体の53%に当たる六万二千二百人にも達したといわれています。当然の事ながら、芸者衆も散り散りになり、検番は一度、消滅してしまいます。
再び松山の花柳界に灯がともるのは、戦後の進駐軍将校の接待宴によるものでした。昭和二十一年、「お友」姐さん、「一平」姐さん、「米千代」姐さん、「桃之助」姐さんたちにより「松山検番」は復活します。
その時は、料亭「桃太楼」の横に空き家があった為、そこを借りて、「お友」姐さんを住まわせ、事務員さんを二人雇い、松山検番としました。正確には、戦後の芸妓置屋制度の廃止により、検番という名前が付けられず、「松実会(多くの文献では松美会となっておりますが再検証の結果、松実会の名称が正確なようです)」という名前にしました。また、農林大臣が検番許可証を交付しており、当時のお金で五万円を出して、土建会社の社長からその許可証を買い取ったそうです。
数人だった芸者は六十人規模にまで増え、「松山検番」はおおいに発展します。戦後は、検番も松山検番だけとなっていましたが、誰もが検番に入れたわけでもなく、また検番の中でもお座敷に声が掛かる芸者とそうでない者が生まれ、昭和三十五年頃には、松山検番から出た「小春」姐さんらにより一度、道後検番が作られています。道後の検番は松山検番より花代を下げて営業を始めたところ、道後界隈の発展により、好調な滑り出しをみせたものの、その後花代を上げると、客が離れ、花代を下げると、客が戻ってくるというような事を何回か繰り返した後、規模の縮小などにより、松山検番に再統合され現在に至っています。
戦後は、置屋に住み込んで芸を磨くというスタイルも消え、検番に属する者同士による芸の継承が中心となっていきましたが、かつて、一つの置屋には、五~十人の芸者がいました。彼女たちの中には借金(前借)のかたに十歳前後から、お姐さんの使いをしたり、衣裳をたたんだり、掃除洗濯の手伝いする「仕込みさん」からはじまり、おかあさんと呼ばれるおかみさんやお姐さんに、芸事やお座敷での礼儀作法、花町の約束事などを厳しく仕込まれていくものもいたようです。やがて半玉になり、十七・八歳になると、衿替えといって旦那を持ち、一本立ちした芸妓になっていきました。ただ、舞妓や芸者になるには試験にパスしなければならず、踊りや三味線の師匠、置屋の姐さんたち、そしてなぜか警察署長がズラリと並ぶ前でテストを行ったといわれます。
また、日頃から真っ白のねりおしろいを塗り、裾をひいた着物を着て、左づまをとっていました。半玉は京びん、芸者になると島田を結います。芸者につきものなのは人力車で、近くのお座敷でも人力車に乗って行ったそうです。乗らない時は、仕込みさんが三味線を下げて姐さんの後ろからついて回りました。その一方で、道後公園では、寒稽古と称しては、のどが破れるほど大声を出して修行を行い、手から血を流しながら鼓の稽古をし、みな「芸一筋」であったといわれます。この「芸一筋」の心意気は今も松山検番に伝わっています。
松山の検番の歴史は花街の発展と共にあります。明治四年に廃藩置県が実施されるまでは、大街道より西側の二番町・三番町・千舟町は士族の住む屋敷町でしたが、徐々に士族の居住者も減り、明治十年頃にはポツポツと料理屋が開業し始めました。武家屋敷の造作、庭がそのまま料亭として使えた事、近くに大街道という繁華街が通っていた事、一番町の官庁街から近かった事を理由に、二番町・三番町に松山の花柳界は形成されていきました。
芸者の起源・巫女
芸者の歴史は、その流れを辿っていくと、白拍子、あそびめ、さらには巫女にたどりつきます。巫女は、「古事記」・「日本書紀」に記される日本神話では、天岩戸の前で舞ったとされる天鈿女命の故事にその原型が見られますが、神事において古くから男女の巫が舞を舞う事によって神を憑依させた際に、一時的な異性への変身作用があると信じられていました。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が熊襲征伐において女装を行い、神功皇后が三韓征伐の際に男装を行ったという話も彼らが巫として神を憑依させた事の象徴であったと考えられます。
源平と白拍子
平安時代になると、巫女が布教の行脚中において舞を披露していく中で、白い直垂・水干に立烏帽子、白鞘巻の刀をさすという男装姿で歌や舞を披露する白拍子が生まれてきます。白拍子は、男女問わずに舞われましたが、主として女性・子供が舞う事が多く、白い装束(水干、長袴)をつけて舞うところから、あるいは楽器がなくても手拍子をとり、歌で舞うところから白拍子と呼ばれるようになりました。白拍子を舞う女性たちは貴族の屋敷に出入りすることも多かったために、身分や見識の高い人が多く、平清盛の愛妾となった祇王や仏御前、源義経の愛妾静御前など貴紳に愛された者もいたようです。
豊臣秀吉と日本最古の花街上七軒
白拍子は鎌倉時代まで続きますが、やがて戦乱の世となり次第に廃れていきます。そして室町時代には、日本最古の花街と芸者が生まれる素地が整います。そのきっかけは、十五世紀中頃、北野天満宮の一部が焼失し、この神社の修造作業中に、残った材料を払い下げてもらい現在の上七軒にお茶屋を建てた事に始まります。一五八二年には、天下統一を果たした豊臣秀吉が北野でお茶会を催し、その際、休憩所として七軒茶屋が利用されたことから、お茶屋の営業権が与えられます。また北野天満宮には、古くから巫女がおりましたが、成熟した女性ともなると巫女としての職を離れなければならず、彼女らは後に、七軒茶屋で茶立て女や茶汲み女になり三味線を弾いたり舞や踊りをすることで客を惹きつけるようになります。
出雲阿国の登場
一六〇三年、同じ京都に、出雲大社勧進のため、女たちと共に諸国を巡業して、歌や踊りで客を楽しませる女性が現れます。出雲の巫女であった阿国の登場です。特に、京都四条河原で演じた男装に刀をさし、茶屋遊びに通う伊達男を演じる歌舞伎踊りは大変な人気を博し、元和年間(一六一五~一六二四年)には四条通の南側に三座、北側に二座、大和大路に二座、合計七つの櫓が公許されるにまで至ります。出雲阿国以降、大勢の遊女がそれを真似して、新しく渡来した楽器である三味線を伴奏に、はなやかな舞台を展開し、遊女歌舞伎と称されるようになっていきます
吉原の成立
遊女歌舞伎は、旅芸人である遊女たちによって各地に伝播し、江戸でも人気を博し、彼女らは踊子と称されるようになりますが、元来やくざ者を真似した行為であるという事と、女性の肉体的魅力を表現し過ぎたという事で、一六一七年には駿河と江戸で女歌舞伎は禁止されます。これは単に女歌舞伎だけが禁止されたのではなく、女舞・女浄瑠璃等、すべての女芸能人が公衆の前に立つことを禁止したものでした。
そして幕府は一六一八年に体制秩序を名目に、庄司甚右衛門に吉原遊郭を作ることを許可します。芸能と売色を分離し、騒擾力を制御する為の吉原の成立です。市中の遊女屋をまとめて管理する治安上の利点などを求める幕府と、市場の独占を求める一部の遊女屋の利害が一致した形で、吉原遊廓は始まりました。芸能民としての遊女たちは、吉原に吸収されるか、吉原に入らずに「踊子」として芸能を披露する場を、劇場から武家屋敷へと変え、経済力のある武家に雇われたり呼ばれたりするようになりました。
非公認の深川芸者
一六五七年、江戸では明暦の大火と呼ばれる大火事があり、この頃から江戸の郊外にある深川へ多くの人が移動します。深川は水運が便利で、火事も少なく、寺院や武家屋敷が移り、料亭や幕府非公認の遊所である岡場所も多く存在するようになります。この深川の新しい料理屋や岡場所に踊子たちが集まり始め、一七〇〇年頃には菊弥という女芸者の存在があり、一七四〇年頃には深川の芸者は、世間的にも認知されるようになっていきます。
幕府公認の本格芸者・吉原芸者
一七五三年、深川で私娼を兼ねていた踊子百十五人が検挙がされ、幕府の管理下である吉原へと引き渡される事件がおきます。その頃、吉原は衰退の途をたどっており、歌舞音曲に達者なものを、それに専念させ、代わり売色から手を引かせる事で、いわゆる色を売らない吉原芸者を生み出します。特に一七六〇年頃に活躍した、扇屋の歌扇は踊りや歌、そして三味線を得意とし、巧みな話術で座を盛り上げ、今のお座敷に近い状態を演出します。
芸者の監視役・見板の設立
一七七九年には、芸者と遊女の職分を明確にする為に、角町の大黒屋が芸者の監督所を創設します。男女あわせて100人を登録し、それぞれの名札をかけたので見板と称しました。これが江戸から現代まで続く見番(検番)のはじまりです。見板では、登録した男女の芸者を監督し、遊女屋及び引き手茶屋からの注文に応じて、指名された芸者を派遣し、座敷を取り持つことに専念するように言い渡されました。更に、芸者が遊女の職分を侵さぬように、検番から服装に関する規則まで出されました。吉原芸者は白襟無地の紋付の小袖に、縫いの無い織物の帯を締めることを義務付けられてきましたが、遊女の前帯と区別するために、一つ結びという前帯をぐるりと後ろへ回して裾近くまで垂らした形としました。縮緬の白の蹴出しを巻いて素足とし、頭も島田髷に平打の笄一本、櫛一本、簪一本という質素な格好でしたが、幕府より唯一公認された芸者が吉原芸者だけであり町の芸者からは羨望の眼差しでみられました。
京都六花街の形成
一方、踊子の発祥地である京都では、北野天満宮を中心とした上七軒、八坂神社を中心とした宮川町、先斗町、祇園(後に祇園甲部と祇園東に分かれる)、更に日本最古の公許遊郭である島原を加えて一大都市が形成されていきます。京都に芸者が現れたのは一七五〇年頃と言われ、その成り立ちも吉原と似たようなもので一七五〇年に島原以外の遊女に対する取締りを行った結果、祇園町、宮川町の遊女が島原へ送り込まれ、そこから歌舞音曲に優れたものが色を売らない芸者となっていきます。
辰巳芸者の隆盛
文化年間(一八〇四~一八一八)、江戸では深川の芸者が吉原芸者を圧倒する勢いをみせます。この頃には、深川の芸者は、場所が江戸からみて、東南(辰巳)の方角にあることから、辰巳芸者ともいわれます。辰巳芸者は粋で人情に厚く、芸は売っても色は売らない心意気を自慢とし、身なりは地味で薄化粧に、当時男のものだった羽織を引っ掛け座敷に上がり、男っぽい喋り方をします。また芸名も「鶴吉」「鶴八」「竹助」など男の名前(権兵衛名)を名乗っています。これは男芸者を偽装して深川遊里への幕府の捜査の目をごまかす狙いもあったようです。
水辺の柳橋芸者
色を売って芸を売らない者を女郎といい、芸を売って色を売らない者を芸者といいますが、深川では色と芸を兼ねる女郎芸者が増えてきたために一八四二年、水野越前守により二十七箇所の岡場所で取締りが行われます。色気無しでは、花柳界という社交場は成り立ちませんが、色が目的になっても社交の場は失われます。深川はこの取締りにより完全に息の根を止められ、かくして、辰巳芸者の多くは吉原へ舟で向かう客がまず立ち寄る柳橋へと移っていき、柳橋芸者となっていきます。柳橋は舟運の要地であり、その中心は船宿で、万八、河内といった有名な料理屋も多かったのも発展した要因です。柳橋芸者は、あっさりとして趣があり、媚びる事無く、江戸芸者の正統として日本橋界隈の老舗の旦那を中心に強い支持を得ます。
江戸の終焉と金春芸者
幕末になると、米の値が急騰したのをきっかけに貧民の打ちこわしが多発し、江戸三座は木戸を閉め、吉原は全焼しました。その中で、汐留川の両岸から木挽町へかけて船宿や料理茶屋が、勤皇か佐幕かに揺れる各藩の留守居役の交渉の場として繁盛し、それらを出先とする酌人は慶応年間に急増し二百人を数えるようになります。彼女達は、能役者の屋敷跡に住みついた常磐津などの女師匠で、その中から金春芸者と自称するものが出てきます。この頃には、酒気を帯びたお座敷ともなれば斬り合いも珍しくなく、そんな中で金春芸者が物怖じもせず、親身に勤めた為に、勤皇派の西国侍が自然とこの界隈に馴染むようになりました。そして、この金春芸者が、明治維新以降、柳橋芸者に代わって隆盛を誇る新橋芸者へとなっていきます。
明治維新と祇園
同じく幕末期に、勤皇派を受け入れ、明治維新以降、西の代表格としての地位を築き上げたのが京都の祇園です。木戸孝允の正妻となった幾松など、著名な芸者を輩出し、明治維新以降は、没落士族の娘などかなりの数が芸者に転身し、社会の表舞台へと躍進する原動力となりました。幕末の藩士が芸者と密接に関わっていったのは、花街の料亭やお座敷の機密性が、高い信頼を得ていたからだといえます。
鑑札制度による芸者の増加
明治になると、近代国家としての体面を整える必要もあり、明治五年に芸娼妓解放令が出され、一切の人身売買が禁止されます。芸者の年季奉公も禁止され、更に借金も棒引きされた為に芸者は晴れて自由な身となりました。これでは流石に、抱え主が納得しないと思ったのか、政府は遊女も芸者も人権すら持ちえぬ牛馬に等しいものだと思って我慢しろと付け加えたので、後にこの布告は「牛馬の切りほどき」と称されるようになります。更に、貸座敷渡世規則・娼妓規則・芸妓規則が制定され、芸者になりたい者は各知事に届け出て鑑札(営業許可証)を受け、月々三円の鑑札料(営業税)を納める事で誰でもなれるようになりました。この事により、全国津々浦々に芸者がいる花街が出現したのです。
新橋芸者VS柳橋芸者
誰もが芸者になれるようになりましたが、芸者の世界には花代と課税率によりはっきりと格付けがなされていました。明治初期の東京の芸者は、一等地が花代壱円の新橋と柳橋、二等地が日本橋、葭町、新富町、数寄屋橋で八拾銭、三等が烏森、吉原で五拾銭、四等が深川、神楽坂の参拾銭、五等が赤坂等であったようです。このうち新橋は、明治五年に汐留停車場から改称されたもので、この界隈を出先とする金春芸者もこれ以降、新橋芸者と呼ばれるようになりました。新橋芸者の中からは新政府の高官の側室のみならず、本妻にまで出世する者が少なからず現れるようになった為に、この頃から新橋は柳橋を追い抜く勢いをみせはじめます。更に、三井系の財界茶人が茶器や書画の類を披露する茶会を新橋の料理屋や待合で盛んに開いた為に、そのような席を勤める新橋芸者の趣味教養はますます深まり、各財閥の園遊会や、諸外国の賓客を接待する場にも頻繁に呼ばれるようになりました。また、明治三十五年頃には、瓢家という待合の主人が、当代一流の家元や名人を師匠に迎え、新橋に籍のある芸者であれば三円の月謝で幾通りでも稽古を受けてよいという制度を設けたことから、新橋芸者の芸は急激に向上していきました。
赤坂の台頭
東京では、新橋の台頭に加えて、もう一つ大きく躍進した場所があります。それが赤坂です。明治の初期には五等地に過ぎなかった赤坂が、昭和の初期には二等地まで昇りつめたその背景には、春本と林家という二軒の芸者屋の奮闘があります。特に、新政府の高官や政治家を受け入れた新橋と異なり、赤坂は軍人を受け入れて発展していきます。明治四十一年には文芸倶楽部の美人投票で全国一位になった名妓「萬龍」を育て上げ、戦後には柳橋・新橋と三和会を組織し、他の花柳界との格の違いを主張するまでに至りました。
祇園の都おどり
都が東京に移った京都では、新たな観光名物が必要となり、明治五年、京都府知事と槇村正直らにより博覧会の余興として都をどりが考案されます。これは、当時としては新しい集団舞踏といわれ、三世井上八千代による振り付けで五~十人が揃って同じ踊りをする難しさがあり、芸舞妓の公の発表の場として、京都の年中行事の一つとして定着していきます。この時期、京都は夏目漱石や谷崎潤一郎といった文人や政治家等に愛され大いに繁栄します。
女紅場と祇園
芸娼妓解放令により、職を失った女性が増えた事から、裁縫や、機織り、製茶などを教える婦女職工引立会社が各地で設立されます。祇園の場合、京都府が窮民産業所設立の名目で建仁寺、蓮乗院、蓮華光院などから上地させた一万八千坪の土地を婦女職工引立会社に格安の値段で払い下げられたことにより、大きな地番の中にお茶屋や置屋が建てられ、土地取得の負担が軽減され、借地料の支払いによって運営されるという芸者文化への投資が早くから始められました。この婦女職工引立会社は後に八坂女紅場学園となり、芸者のお稽古場として中心的な役割を果たします。
新橋の東おどり
東京では、第一次世界大戦による好況と、芸の向上により、新橋を名実共に都第一の花柳へと押し上げあました。しかし、東京には京都や大阪と違って、演劇場が無かったために、大正十四年、新橋の菊村が政治力を発揮し、新橋演舞場を創設、新橋芸者総出演の東おどりを考案します。当時東京では新橋以外の花柳界は舞踊の公演に関してはほとんど興味が無く、東おどりが本当に力を発揮するのは、古典作品と作家に舞台作品を依頼する新作を織り交ぜるスタイルを確立した戦後の事です。
戦時中の芸者
昭和十四年、警視庁より料理屋と待合の午前零時以降の営業が禁止され、その一ヵ月後に国民徴用令が実施されます。主だった花柳界の芸者は、大日本国防婦人会の会員となり、これを境に芸者稼業を廃業する者も多かったのですが、赤坂などは、軍人の壮行会などでむしろ忙しくなります。昭和十六年には太平洋戦争が始まり、料理屋で出される料理も、配給物資で賄われるために粗末なものとなり、昭和十九年には決戦非常措置要綱に基づき、花柳界の営業は即日停止となります。40歳以下の芸者は、勤労挺身隊に入り、臨時工場に当てられた料理屋や検番などで軍需品の製造作業に従事させれます。といえども、灯火管制の夜陰に乗じて、昔なじみの客は密かに酒や肴を持ち寄り芸者を呼んでいた事もあったようです。
戦後の衰退
昭和二十年、敗戦後の焼け跡から、芸者業は復活します。進駐軍などの接待により芸者はその活躍の場を見出し、やがて景気の上では戦前に勝る繁盛を迎え、政治の密談から商店街の親睦会まで客の身分と懐具合に合わせて、お座敷がかかるようになりました。しかし昭和三十年頃から、大衆化が進み、三味線や踊り以外にも選択肢が増え、安価で簡便な遊興への欲求が高まっていきます。更に、満十七歳にならなければ芸者になれないという労働基準法や、児童福祉法により仕込みの期間が制限され、幼い頃から芸者を育てる事が事実上不可能となっていた事も拍車をかけ、花柳界全体の発展がみられなくなります。各地方では、芸者は廃業へと追い込まれ、新橋や柳橋、赤坂などの一流所も政治家や大手企業の経営者、重役などが接待の場をバーやクラブへと移行させていき、平成に入ると、柳橋や赤坂の料亭も軒並み廃業し、新橋のみが辛うじて残る程となりました。
祇園が残った理由
その一方で、京都の祇園は古都である強みを活かし、寺社仏閣や古い街並みといったハードウェアに加えて、芸者文化の育成保存によるソフトウェアを整え、地域全体が歓楽装置として機能しています。具体的には、八坂女紅場学園による技能育成とおどりの披露という自前で人材を育て、晴れの舞台として興行を打つという吉本新喜劇や宝塚歌劇に受け継がれたシステムが早くから確立されている点。京都の桜が咲き始める四月初旬から祇園甲部の都おどりと宮川町の京おどりが始まり、四月中旬の遅咲き桜にあわせて上七軒の北野おどり、新緑が鮮やかな五月に先斗町の鴨川おどり、紅葉シーズンの十一月に祇園東の祇園おどりがあり、観光シーズンにあわせた年中行事として出来上がっている点。各お茶屋では、舞妓に幼い頃から(現在では十五歳から)歌や舞、お茶やお花などの作法を教え、舞妓を育てるための諸費用を全て負担しいる点(その代わりお座敷での花代はもらえません)など、舞妓・芸子が祇園全体のものとして育てられ、町の華やかさが演出されている点にこの地域の強みがあります。
現在
平成十九年現在、京都以外の芸者は、各検番や置屋に十数名が在籍する程となっており新潟市や秋田市では会社制度に転換したりして後継者を育成し続けています。この時代になっても、芸者になりたいという人材は少なからずおり、むしろ受け皿の整備と革新的な発想が各地では必要となってきています。
参考文献
「日本花街史」 明田鉄男 雄山閣
「芸者論」 岩下尚史 雄山閣
「お座敷遊び」 浅原須美 光文社新書
「芸者と遊び」 田中優子 学研新書
「江戸の芸者」 陳奮館主人 中公文庫
「柳橋新誌」 成島柳北 近代文学館
「吉原と島原」 小野武雄 講談社学術文庫
「近世風俗志二・三」 喜田川守貞 岩波文庫
「京都花街の経営学」 西尾久美子 東洋経済
「舞妓と芸妓の奥座敷」 相原恭子 文春
>> あ行
■一本(いっぽん)
一人前の大人の芸者さんのことをいいます。また、芸者さんの三十分の花代のことも一本といい、時計がなかった時代、お座敷をつとめる時間を、線香一本が燃えつきるまでの単位として計った為にそのように呼ばれます。
■置屋(おきや)
芸者さんを直接抱えて、芸やしきたりを教え込む所です。検番(見番)は、いくつかの置屋を取りまとめる統括的存在です。
■お座敷(おざしき)
芸者さんの勤務又は勤務地を指します。芸者さんを呼ぶ場合は「お座敷をかける」といい、芸者さんのほうでは「お座敷がかかる」といいます。
■お座付き(おざつき)
芸者さんが宴席に呼ばれたお座敷で踊りを披露することです。 お座敷に来て、まず第一に掻き鳴らす御祝儀物を指す場合もあります。
■お茶を挽く(おちゃをひく)
お座敷がかからず芸者さんが暇なことを言います。
>> か行
■花柳界(かりゅうかい)
江戸から続く、料亭があり芸者衆が往来する社会の事を言います。花柳は、艶やかな赤い花と鮮やかな緑の柳の意味で、色とりどりな華やかな世界を指します。
■玉代(ぎょくだい)
芸者さんを呼んで、お座敷遊びを楽しむための料金の事です。花代とも言います。
■芸妓(げいぎ)
芸妓とは、唄や踊り、三味線などの芸で宴席に興を添えることを仕事とする女性の事をいいます。関東では芸妓を「芸者(げいしゃ)」、見習を「半玉(はんぎょく)」・「雛妓(おしゃく)」などと呼びます。関西では芸妓を「芸子(げいこ)」、見習を「舞妓(まいこ)」と呼びます。ちなみに、松山検番では芸妓を芸者、見習いを半玉と呼びます。
■芸名(げいめい)
芸者さんの名前。源氏名は遊女の芸名のことで、芸者さんは「芸名」と言います。
■検番(けんばん)
見番ともいい、料亭などで芸者さんを呼びたい時に取次ぎを頼む事務所の事をさします。かつては芸者さんの名前が板に書かれていた為に板番と言われましたがこれから派生して、見番や検番となりました。電話が無い時代、料理屋からお座敷がかかると、女中さんが歩いて検番へ芸者の名前と時刻を告げに来ます。見番には箱屋が居て、これを置屋に知らせます。箱屋は芸者をお座敷へ送り届けると、検番に帰ってお帳場さんにこのことを告げここで線香を立てて時間を計ります。線香台には小さな穴の下に芸妓の名札を置くようになっており、芸妓の名札がある上部の小穴に、何本かの線香を立て、これが灰になったら時間が来たことを料亭へ知らせる役割を果たしていました。
■小唄(こうた)
三味線のつま弾きを伴奏とする短い歌曲で、唄と三味線だけでサラリと聴かせる粋な音楽です。
>> さ行
■差し紙(さしがみ)
京都・大坂の風習で、初店の芸者を紹介する紙片の事。名前、出身などを書いて関係先に配る。
■差し込み(さしこみ)
宴席の芸者が客に願って妹芸者を同席させる事。
■三業地(さんぎょうち)
料理屋、待合、置屋が三位一体となって営業を許可された花街の事。
■汐先(しおさき)
夕刻の芸者が出動を開始する時間帯をさす。
■地方(じかた)
三味線・唄・鳴り物・笛などを受け持つ芸者さんのことです。
■線香代(せんこうだい)
花代の事です。かつて、お座敷での時刻を計るのに線香が用いられた事に由来します。一本燃え尽きるのに約三十分、一席設けると四本必要で、延長は一本単位となっています。
>> た行
■立方(たちかた)
踊りを披露する芸者さんのことです。
■都々逸(どどいつ)
「三千世界の カラスを殺し 主と朝寝が してみたい」と高杉晋作が唄った様に七・七・七・五の音数律に従い、三味線と共に歌われるお座敷での出し物。
>> な行
■長唄(ながうた)
長唄は、元々歌舞伎音楽として発展しましたが、幕末になるとお座敷長唄という純粋に演奏用の長唄が作曲されました。長唄の演奏には唄と三味線が使用され、賑やかなものになるとお囃子も入れて演奏されます。
■二業地(にぎょうち)
芸者を呼ぶことができる料理屋と待合茶屋によって組織され、こうした業種が営業を許された地域をさします。
■日本髪(にほんがみ)
日本女性の伝統的な髪形の総称です。お座敷をかける際に、洋髪か日本髪かを尋ねられたら、普通の着物姿で良いか、それとも白塗りに日本髪で行った方が良いかという意味です。
>> は行
■箱屋(はこや)
お座敷に出る芸者に従って、三味線を入れた箱を持って行く男の人の事であり、その他にも芸者さんの着付けの手伝いをしたり、お座敷がかかった料理屋や旅館へ芸者を送り届けると、見番に帰って「お帳場さん」にこのことを告げるなど芸者のマネージャー的役割を果たします。
■花代(はなだい)
お座敷に花を添える芸者さんを呼ぶ際に発生する料金のことです。 玉代(ぎょくだい)、線香代ともいわれます。
■半玉(はんぎょく)
一人前になる前の芸者さんのことです。かつては、花代が一本の芸者さんの半分だったことから、このように呼ばれるようになりました。
■左褄を取る(ひだりつまをとる)
芸者になる事を指します。引着の褄を左手で持つことから転じており、左手で褄を持つと、着物と長襦袢の合わせ目が反対になるため、男性の手が入りにくくなり、「芸は売っても身体は売らない」という意思表示です。
■一座敷(ひとざしき)
お座敷に入った芸者さんがつとめる時間のことです。一座敷二時間で四本という単位が一般的です。
>> ま行
■舞妓(まいこ)
半玉とも言います。一人前になる前の芸者さんのことです。
■町芸者(まちげいしゃ)
宝暦頃、吉原遊郭外に現れた芸者をさします。これに対して、廓内にいるのを里芸者と呼びます。
>> や行
■雇女、雇仲(やとな)
雇われ仲居をいい、配膳等に従事し、宴が始まれば酌をし、歌舞にも及ぶ。大正時代、大坂に発生し、近畿一円に普及しました。
■宵廻り(よいまわり)
初めて一本立ちした芸者が、披露目の前夜に茶屋へ挨拶回りすること。
明治の松山検番
松山の花柳界は大街道(松山市の中心市街地にある商店街で松山中央商店街の一部)より西の二番町、三番町周辺にありました。松山検番と明治楼は通りを挟んで向かい側にあり、梅の屋は更に一本西の通りにありました。かつての松山検番の位置にはマンションが建っており、梅の屋にはオフィスビルが建っています。
参考文献
「新版 わすれかけの街 松山戦前戦後」 池田洋三
愛媛新聞メディアセンター